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参院選に向けて。「丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)」

明日は参議院選挙。

ということで、大学時代に記録していた文書を引用して思考の整理をする。

以下、すべて「丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)」の引用である。

「…丸山が読者に向かって奨める内容は、六〇年安保の際を除けば、おたがいに顔の見える小さな集団の中で、日ごろから政治や社会や文化の問題を討議することを通じ、「自主的な批判力と積極的な公共精神」(集5-190~191)を養うことに限られていく。そうした基礎の上で、日常の仕事のあいまに政府の動きを「監視」する、「非職業政治家の政治活動」が大事なのである。…「政界」を構成する職業政治家だけではなく、「政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられる」(集8-314~315)のである。」(175-176)

「…自分の生活のすべてを政治参加に捧げるような「完全市民像」に、丸山はむしろ、大衆社会における不安と孤立感を共同体との合一化で癒そうとする、ファシズムと紙一重の危うさを指摘する(座4-142)。政治のプロフェッショナルではない、一般人の政治とのかかわりは、あくまでも「いやいやながら」のはたらきかけ、「パートタイム参加」にとどまるべきものなのである(集8-39)。」(181)

「さらに、現代の情報洪水の中で、目に見えない画一化の作用にさらされながら、みずからの「個」としての独自性を保ち、しかも欲望に押し流されずに、適切な「政治的判断」を働かせることは、いかにすれば可能になるのだろうか。そこで丸山がぎりぎりの期待をかけるのは、「他者感覚」にほかならない。」(196)

「では、そのイメージによる境界線をこえ、「外側」の住人の声にも耳を傾けられるようになるには、どうすればいいのか。だれもが自分の属する世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるという理想論は、すでに「逆さの世界」に生きていることを前提とする丸山のとるところではない。人間に残されている道は、あくまでも「内側」にとどまっていることを自覚しながら、外との「境界」に立ち続けることである。-「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を分かち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある」(集9-43)。こうして、「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他材において理解する」ことを、丸山は呼びかける。現にある自分から理想の「主体」へと飛翔するのではなく、「内側」に身をおきながら、少しでも「外」への視線をのばし、コミュニケーションを続けていくこと。この現実の自我による、「他者」にむけた水平次元での営みが、重要な鍵になる。」(197)

「…丸山は、現代の大衆社会で、人々がメディアの供する娯楽や情報を享受するだけの受動的な存在と化し、政治に無関心になるかたわら、その同じ人々が、唐突に熱烈な政治参加へとむかう現象を指摘していた。現代において、政治機構は複雑化し、国際世界の動向が人々の生活にじかに影響を及ぼすようになったことも重なって、誰が決定を行っているのか、まったく見えなくなった。そこで人々は、自分の手の及ばないところで政策が決まっていると感じ、無力感にとわられるようになる。これが無関心の内実であり、その「諦観と絶望」は政治に対する「焦燥と内憤」と背中あわせになっている。そこに「政治的指導者」が目をつけ、メディア上での宣伝を通じて、反対勢力や、特定の外国に対する憎悪をかきたてると、その強烈な刺戟に人々は興奮し、「自我の放棄による権威への盲目的な帰依」に向かっていく(集6-114)。ドイツも日本も含めて、かつて「ファシズム独裁」が登場した心理の基盤を、丸山はこのように説明した。いまからみれば、一九五〇年代よりも、二十一世紀初頭の政治の現実に、ぴったりくるような指摘である。」(173)

「人と人、集団と集団、国家と国家が、それぞれみずからの「世界」にとじこもり、たがいの間の理解が困難になる時代。そのなかで丸山は、「他者感覚」をもって「境界」に立ちつづけることを、不寛容が人間の世界にもたらす悲劇を防ぐための、ぎりぎりの選択肢として示したのである。」(210)

今週のお題「わたしの本棚」

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)